浮世草子にも描かれた『国性爺合戦』
正徳4年(1714年)9月10日、竹本座の創始者・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が、64歳でこの世を去ります。義太夫は、死の直前まで太夫(たゆう)として活躍していました。人気が高く、座の看板太夫であった義太夫の死によって、竹本座は新たな局面を迎えることとなりました。
竹本座の座付作者(ざつきさくしゃ・専属の作者)の近松と、座本(ざもと・興行責任者)の竹田出雲(たけだいずも)は、竹本座の危機を乗り越えようと一致協力します。正徳5年(1715年)11月15日初演『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』は、若手の太夫・竹本政太夫(たけもとまさたゆう)に重要な場面を任せて上演したものでした。近松と出雲は、政太夫を引き立てて、座を代表する太夫へと育てようとしたのです。その努力の甲斐あって、『国性爺合戦』は大きな評判となり、17ヶ月間ものロングランヒットを達成します。竹本座は、政太夫を中心とした新体制で、再出発を果たすのです。
政太夫は、義太夫に比べて声が小さい分、情を深く語る太夫でした。義太夫没後の近松の作品は、政太夫の芸風に合わせ、より深遠なものとなっていきます。さらに近松自身の人間性への細やかな観察眼、深い心理描写などの円熟味も加わって、『心中天の網島(しんじゅうてんのあみじま)』・『平家女護島(へいけにょごのしま)』・『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』など、数々の名作が誕生しました。
竹本座(右)と豊竹座(左)
近松が宝永2年(1705年)に竹本座の座付作者になった後、大坂に、義太夫節人形浄瑠璃を上演する豊竹座(とよたけざ)が新しく誕生しました。近松の死後も長く続いた「竹豊時代」と呼ばれる一時代のはじまりです。
豊竹座を興した豊竹若太夫(とよたけわかたゆう)は、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)の弟子として、竹本座で修業していました。以前にも1度、独立を試みますが上手くいかず、一旦竹本座へ復帰。2度目の独立で、竹本座から人形遣い・辰松八郎兵衛(たつまつはちろべえ)を引き抜き、紀海音(きのかいおん)という作者を座付作者に据え、豊竹座を設立しました。
以後、豊竹座は順調に活動し、竹本座のライバルとなっていきます。近松と海音が、同じ事件を元に、それぞれの座で異なる世話物を書くこともありました。近松の晩年にかけて、情を深く語る竹本座、美しい声で華やかに語る豊竹座という、それぞれの芸風が確立します。以後、竹本・豊竹両座が、それぞれの芸風をもって切磋琢磨し、人形浄瑠璃の繁栄を招くのです。