年表

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  • 生い立ち

    1653~1672

  • 作者の道へ

    1684

  • 作者としての独立

    1692

  • 歌舞伎作者時代

    1702

  • 再び人形浄瑠璃の世界へ

    1714

  • 名作を生んだ大成期

    1721

  • 晩年

    1724

再び人形浄瑠璃の世界へ

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珍しい演出が描き込まれた『曽根崎心中』絵入本

『そねざきしんじゅう』の成功

 元禄16年(1703年)5月7日、竹本座で、近松が書き下ろした浄瑠璃作品『曽根崎心中』が上演されます。近松最初の世話物である『曽根崎心中』は、近松の作者人生の、大きな転換点となった作品です。
 歌舞伎作者時代の近松は、「世話狂言(せわきょうげん)」と呼ばれる短い作品も執筆していました。庶民の周りで起こった身近な事件を、数日のうちに芝居に仕立てて上演するものです。近松は、歌舞伎の「世話狂言」の手法を活かし、浄瑠璃作品『曽根崎心中』を執筆します。
 当時の人形浄瑠璃の上演で、物語を語る太夫(たゆう)や人形遣い(にんぎょうつかい)が観客に姿を見せることは、ほとんどありませんでした。しかし『曽根崎心中』では、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)と、女主人公・おはつ(現在の文楽では「お初」)を遣った人形遣い・辰松八郎兵衛(たつまつはちろべえ)が、観客の前に出て、作品冒頭の道行「大坂三十三所観音廻り(おおざかさんじゅうさんしょかんのんめぐり)」を演じています。こうした珍しい演出が行われた上に、近松の手によって、心中事件そのままではなく、心理描写の豊かな文学的作品となった『曽根崎心中』は、大きな評判を得ます。そして『曽根崎心中』の好評により、近松は浄瑠璃作者として、浄瑠璃の執筆に専念する決意を固めるのです。

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近松の座付作者としての1作目『用明天王職人鑑』絵入本

たけもとざのざつきさくしゃへ

 近松は、『曽根崎心中』の大当たりをきっかけに、竹本座の座付作者(ざつきさくしゃ・専属の作者)となりました。これをきっかけに、住居も、長年住み慣れた京都から、竹本座のある大坂へと移しています。
 当時、竹本座は慢性的な経営難に陥っていました。しかし、『曽根崎心中』のヒットで大きな収入を得て、ようやく危機を脱します。長年の座の運営に疲れていた竹本義太夫は、これを機会に引退を望みました。しかし、義太夫を引き止めて、新たに竹本座の座本(ざもと・興行責任者)となったのが、竹田出雲(たけだいずも)でした。
 出雲は、「竹田からくり芝居」を経営し、大坂の演劇界に強い影響力をもつ、竹田一族の出身です。以後、出雲は座本として、竹本座を強力にバックアップしてゆきます。これにより、義太夫は経営を離れ、太夫としての活動に専念することになりました。竹本座はさらに、座付作者に近松を得て、新たな体制をスタートさせます。
 近松が、竹本座の座付作者になった1作目の作品は、宝永2年(1705年)11月(推定)初演の『用明天王職人鑑(ようめいてんのうしょくにんかがみ)』でした。近松はこの作品中に、竹本座の将来を寿ぐ、言葉遊びを組み込んでいます。 「この時よりや諸職人。今も国名を許されて。時にあふ江(おうみ・竹田近江、竹田からくり芝居の芝居主)や世に出雲(竹田出雲)。その万代も竹の名(竹本)の。筑後(義太夫の別名・筑後掾)の後の末長き。御代に住む身ぞ豊かなる」 近松が「時にあふ(時代の流れに乗る)」・「世に出(出世する)」「末長き」・「豊かなる」等と縁起の良い言葉を並べた通り、この後竹本座は、近松・出雲・義太夫の力で、さらなる発展を遂げるのです。

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