貞享2年(1685年)、近松は竹本義太夫(たけもとぎだゆう)とはじめて提携します。このことは、義太夫節の成立と、その後の発展に欠くことのできない、大きな出来事でした。
2人の提携は、新進気鋭(しんしんきえい)の義太夫と、京都で高い人気を得ていた宇治加賀掾(うじかがのじょう)の、大坂の道頓堀(どうとんぼり)での競演に始まります。この時、加賀掾が上演した作品は、以前から加賀掾の浄瑠璃を贔屓(ひいき)にしていた、井原西鶴(いはらさいかく)が執筆したものでした。
それに対し義太夫は、近松がはじめて義太夫のために書き下ろした『出世景清(しゅっせかげきよ)』を上演します。近松と義太夫は、加賀掾率いる宇治座で共に修業をしていました。近松は、義太夫の前途を祝う意味を込めて、作品名に「出世」という言葉を使ったのです。
加賀掾と義太夫の競演は、加賀掾方で火事が起きたことで打ち切りとなります。しかし、新人の義太夫の評判が思いのほか良かったことから、おおむね義太夫方の勝利に終わりました。以後、竹本義太夫の名は、大坂に広く知られるようになったのです。
右下に近松の署名が見られる
近松が作者になった当初、浄瑠璃や歌舞伎の作者の立場は低いものでした。そのため、作者が自分の作品に署名することは、一般的なことではありませんでした。しかし、近松の活躍によって、作者の社会的な地位は、格段に高くなりました。その結果、浄瑠璃の正本(しょうほん・浄瑠璃作品の全文を記した本)に作者名を入れるのは、当然の決まりごとになっていくのです。
近松の、作品への署名が最初にみられるのは、貞享3年(1686年)竹本座初演『佐々木先陣(ささきせんじん)』の正本です。本の冒頭、作品名『佐々木先陣』の下に、「作者 近松門左衛門」と記されています。竹本義太夫は『佐々木先陣』以後も、作者の立場を尊重し、近松の名を正本に記しました。
役者や舞台の評判を記した、『野良立役舞台大鏡(やろうたちやくぶたいおおかがみ)』という本があります。この本は、近松が正本への署名を始めて間もない貞享4年(1687年)に刊行されました。そこには近松の作品署名について、「おかしたいもの(やめさせたいもの)」という批判と、「芝居事でくちはつべき(芝居に生涯を捧げる)覚悟の上」のことならば良いのではないか、という好意的な意見の、両方が掲載されています。