近松作である可能性の高い作品『てんぐのだいり』
延宝3年(1675年)、京都に古浄瑠璃(こじょうるり・義太夫節誕生以前の浄瑠璃)の座・宇治座が誕生します。宇治座の創設者である宇治加賀掾(うじかがのじょう)は、優美な芸風で、たちまち京都の人々の人気を得ました。
近松は、加賀掾の元で作者修業を始めます。近松が仕えていた公家のひとりである正親町公通(おおぎまちきんみち)は、加賀掾の浄瑠璃の愛好者でした。近松ははじめ、正親町公通の使いとして、加賀掾を訪ねたとも伝えられています。
竹本座を創設する以前の竹本義太夫(たけもとぎだゆう)も、一時期宇治座に出演していました。のちに提携し、義太夫節人形浄瑠璃を成立させる近松と義太夫は、この宇治座で出会っていたことになります。
当時の作者の地位は低く、作品の作者名は公表されないのが一般的でした。加賀掾も、正本(しょうほん・浄瑠璃作品の全文を記した本)への近松の署名を認めていません。近松が修業していた頃の宇治座初演作には、近松の初期の作品も多く含まれていたはずです。例えば、延宝5年(1677年)7月に宇治座で上演された『てんぐのだいり』は、近松の作品である可能性が高いと言われています。しかし、これらの正本に近松の署名がないことから、どれが近松の作品か、はっきりわからなくなっているのです。
近松の出世作『世継曽我』絵入本(上方板)
天和3年(1683年)9月、宇治座で『世継曽我』が初演されました。『世継曽我』の正本には作者の署名がありません。しかし、後に竹本義太夫が書いた回想文に本作が登場することから、近松作と認められている最も古い作品といえます。近松はこの時、31歳でした。
『世継曽我』は、有名な曽我兄弟による敵討ちの後日譚(ごじつたん)です。登場人物の中でも特に、兄弟の恋人であった遊女・大磯の虎(おおいそのとら)と化粧坂の少将(けわいざかのしょうしょう)が活躍します。当時の遊女の風俗を織り込んだ、華やかな舞台で人気を得ました。宇治座で修業を重ねて来た近松にとっても、出世作となった作品です。
義太夫もその人気にあやかって、貞享元年(1684年)、竹本座の旗揚げ公演で、『世継曽我』を上演しました。