近松は福井で武士の家に生まれた
近松は、武士・杉森信義(すぎもりのぶよし)、越前藩医岡本為竹(いちく)の娘の次男として、承応2年(1653年)に誕生しました。「近松門左衛門」は実は作者となってからのペンネームで、本名は杉森信盛(すぎもりのぶもり)。他に、「巣林子(そうりんし)」・「平安堂(へいあんどう)」等の別名もありました。
近松の出生地については、長門(ながと・現在の山口県)をはじめ、肥前(ひぜん・現在の佐賀県、長崎県)、山城(やましろ・現在の京都府)など、各地に伝説がありました。しかし、今日では越前(えちぜん、現在の福井県)であると考えられています。
父の信義は、はじめ越前の松平忠昌(まつだいらただまさ)に仕えますが、近松が生まれた2年後、忠昌の子・昌親(まさちか)が吉江(よしえ・現在の福井県鯖江市)藩主となったのに付き従い、家族ともども吉江に移住します。
こうして近松は、10代の半ば頃までを、武士の子弟として吉江で過ごしました。しかしその後、詳しい事情は不明ながら、父が浪人し、近松一家は吉江を去ったのでした。
吉江を離れた近松一家は京都に上りました。上京後、近松の詠んだ句「白雲や花なき山の恥かくし」が、『宝蔵(たからぐら)』という書物に残されています。同書には、近松の両親・曽祖父・弟の句も見え、文芸に親しむ家風がうかがえます。
青年期の近松は、京都で公家に仕えていました。近松の奉公先として伝えられているのは、正親町公通(おおぎまちきんみち)、阿野実藤(あのさねふじ)、さらに、後水尾院(ごみずのおいん)の弟である一条恵観(いちじょうえかん)などです。
文化的レベルが高く、豊かな教養を持った公家への奉公は、その後の近松の作家活動に、多大な影響を与えたものと思われます。