近松門左衛門が魅せられた人形浄瑠璃

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げんろくじだいに花開いた「かみがたぶんか」

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道頓堀芝居町の風景

大坂と文楽

 浄瑠璃作者としての近松は、主に大坂で作品を執筆していました。以後、文楽は大坂を本拠地とする芸能として、今日まで伝承されることになりました。文楽の作品中、特に世話浄瑠璃には、大坂の町や人々の様子が、丁寧に描写されています。また、当時の大坂言葉のアクセントが、義太夫節(ぎだゆうぶし)の旋律に残されているとも言われています。

 義太夫節の祖・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)は、大坂・道頓堀(どうとんぼり)に竹本座を創設しました。道頓堀とは、江戸時代初期に作られた運河・道頓堀川の南側を指す地名です。道頓堀川の完成後ほどなく、道頓堀は、芝居小屋や遊郭が建ち並ぶ歓楽街に発展します。
 当初、道頓堀で義太夫節人形浄瑠璃を上演しているのは、竹本座だけでした。しかしその後、竹本座のライバルとなる豊竹座(とよたけざ)も、同じ道頓堀に設立されます。道頓堀の西側と東側にあった竹本・豊竹両座の活躍は、芝居街としての道頓堀に、繁栄をもたらすことになったのです。

 現在も歓楽街として知られる道頓堀は、大阪市中央区の南西部にあたります。文楽が上演される国立文楽劇場も、道頓堀に近い日本橋(にっぽんばし)に建てられています。

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