狂言の演目と鑑賞

洛外[都の外]に住む男が、以前、美濃の国[今の岐阜県南部]・野上の宿(のがみのしゅく)でなじみになった遊女・花子(はなご)が都に上ってきて手紙をくれたので、妻の目を盗んで会いに行こうとします。男は妻に、最近夢見が悪いので諸国の寺々にお参りに出かけたい、せめて持仏堂に籠もって一晩座禅すると言い、決して邪魔しに来てはいけないと禁じます。妻が覗きに来たときの対策に、座禅衾(ざぜんぶすま)をかぶせた太郎冠者を身代わりにして花子のもとに出かけます。結局、真相を知った妻は激怒し、今度は自分が座禅衾をかぶり、夫の帰りを待ち受けます。そうとは知らず、夢見心地で帰ってきた男は、座っているのが太郎冠者だと思い込んで、花子と過ごした夜の一部始終を語って聞かせます。ところが座禅衾を取ると妻が出てきて仰天し、怒り狂う妻に追いかけられ、男は逃げまどいます。
前半は、主人の思いつきに振り回され、主人と妻の板ばさみになり、いつも相手の言いなりになるしかない太郎冠者のおかしくもあわれな立場が印象的です。後半は夫が最も聞かすべきではない相手に長々と花子の話をしてしまう場面が笑いを誘います。『釣狐』と並び、特に演じるのが難しいとされ、特に後半は小歌を多用し、ほとんどシテの独演のようになります。ここで謡われる小歌は、室町時代の歌謡集『閑吟集』と重なるものも多く、当時の流行歌とも考えられます。美しいメロディーと「ユリ」と呼ばれる独特のバイブレーションが特徴で、変化に富んだ謡い方がされます。本曲は、能『班女(はんじょ)』を下敷きにしており、いわば『班女』の後日譚といった趣向の作品だと言えるでしょう。
[夢見心地で帰ってきた男が一部始終を語る場面より]
男「私の恋は因果か縁か、因果と縁とは車の両輪(りょうわ)のごとく、ただかりそめに、[小歌]いつの春か、思い初めて忘られぬ、花の宴(えん)や花の宴」
参照:「狂言はやわかり>3つの柱」で上記の小歌の一部を聞けます。


『花子』[大蔵流]
シテ[夫]/2代目・茂山千之丞、アド[妻]/13代目・茂山千五郎
1994年[平成6年]9月23日 国立能楽堂第62回狂言の会(YN0310062152518)