歌舞伎の成立、歌舞伎舞踊の発展

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歌舞伎の誕生

<阿国のかぶき踊り>

戦乱の続いた中世(16世紀)に、公家も武士も民衆も一緒になって踊った「風流(ふりゅう)」という踊りがありました。元は応仁の乱で亡くなった人々を慰めるための踊りでしたが、だんだん大がかりになり、やがて着飾った男女たちが歌を歌いながら同じ振りを踊る「風流踊り」になります。こうした時代背景の下に「かぶき踊り」が生まれます。「かぶき」とは「傾く(かぶく)」という言葉を名詞にしたもので、傾いている状態、つまり正常とは異なる状態を指しています。「かぶき踊り」では、出雲の阿国(いずものおくに)とよばれた女性が男装し、十字架の首飾りをするなど通常と異なる扮装をしていたといわれています。後に「かぶき」に「歌舞伎」という文字があてはめられました。

<女かぶきから若衆かぶきへ>

この「かぶき踊り」が人気を得ると、他の女芸人たちもそれにならい、美貌の女性をスターにした踊りがいくつも登場します。さらに遊女たちもこれを真似て男装し、皆で振りをそろえて踊る「遊女かぶき」が生まれます。しかし女芸人や遊女といった女性が演じる「女かぶき」は、風紀を乱すものとして、幕府に禁止されてしまいます。すると「女かぶき」に代わって、未成年男子が演じる「若衆(わかしゅ)かぶき」が盛んになりました。「若衆かぶき」では従来の大勢で踊るものだけではなく、狂言から取り入れた舞など、個人で舞う芸も発達しました。

<野郎かぶきと女方の誕生>

やがて「若衆かぶき」も禁止されますが、民衆の強い要望により、幕府は成年男子によって演じられる「野郎かぶき」を許します。「野郎かぶき」になると、それまでのように官能的な踊りを中心とするのではなく、演劇性のある芝居を上演するようになりました。そこで男性が女のを演じる必要性が生まれ、ここに女方(おんながた)が誕生します。

<ストーリー性の薄い舞の時代>

女方の元祖といわれているのは右近源左衛門(うこんげんざえもん)で、元は若衆かぶきのスターです。「野郎かぶき」時代の女方の芸は、小歌を歌ったり美しい舞を見せるものでした。右近源左衛門が得意としたのは「海道下り(かいどうくだり)」という道の風景を描いた舞で、この段階ではストーリー性の薄いものでした。

所作事の成立

<恋の思いと所作事>

元禄年間(1688~1704)になると「所作事(しょさごと)」という、ストーリー性をもった舞踊が誕生しました。「所作」とは「演技としての身ぶり」「物真似的な身のこなし」のことで、「所作事」とは「所作」の要素を持った舞踊を指します。

所作事は、女方の恋の思いの表現から生まれました。それまでの恋の思いの表現では、嫉妬から怨霊となるものが多く、怨霊の表現にアクロバット的な要素を持つ「軽業(かるわざ)」を使うのが主流でした。この時代に、「軽業」のかわりに「所作事」を使うパターンができたのです。

<女方の情念の表現・変身の舞踊>

水木辰之助(みずきたつのすけ)は、元禄時代(1688~1704)の所作事の名人です。当時、怨霊の表現は女方の担当で、怨霊の表現には軽業が用いられるのが一般的でしたが、水木辰之助は軽業を使わず、所作事で表現しました。その代表が「猫の所作(ねこのしょさ)」です。内容は、ある姫が、恋した相手が実の兄だと知り、兄への思いを断ち切るために兄を他の女性と添わせます。しかし恋する気持ちはとめることができず、兄妹でも夫婦になることのできる飼い猫をうらやましく思っていると、その一念が凝り固まって猫に変身するというものでした。この所作事は大当たりで、京、江戸、大坂の三都で上演されました。

<変化舞踊のはじまり>

水木辰之助は「『七化け(ななばけ)』の所作」を京で演じ評判になります。この所作事は、男に殺された女の怨念が、犬・公家・白髪の老人・禿(かむろ)・若衆・女の怨霊・猩々(しょうじょう)の7種に化けて現れるものでした。これが後に流行する変化舞踊(へんげぶよう)の元になりました。変化とは妖怪変化のことで、1人の演者が次々と扮装を変え、何役にも扮して踊る舞踊のことです。

長唄舞踊の発展

<長唄舞踊の興隆>

享保年間(1716~1736)になると、長唄という音楽が発展・流行し、所作事と結びついて、のちに「長唄舞踊」とよばれる1ジャンルを形成しました。長唄は、元来、三味線が活躍する部分が多く賑やかな曲でしたが、そこに優雅で美しい節が加わり、女方を主人公にした舞踊曲に取り入れられ、華やかな所作事が作られました。

<初代瀬川菊之丞の舞踊>

初代瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)は享保から寛延年間(1716~1751)の所作事の名人です。初代菊之丞は『無間鐘新道成寺(むけんのかねしんどうじょうじ)[別名:『傾城道成寺(けいせいどうじょうじ)』]や『百千鳥娘道成寺(ももちどりむすめどうじょうじ)』、『相生獅子(あいおいじし)』を上演して大評判を取りました。

『無間鐘新道成寺』は、恋する男のために死んだ傾城が、亡霊となって現れ恋の思いを訴えるという内容です。『百千鳥娘道成寺』は、傾城に娘の死霊が取りつき、白拍子(しらびょうし)姿になって現れ、メドレー式に恋の思いをつづっていくものです。この2つの『道成寺』が現在の「道成寺物(どうじょうじもの)」の元になりました。

『相生獅子』は、傾城の霊が恋人の前に現れ、獅子頭をもって踊るという内容です。これは「石橋物(しゃっきょうもの)」の原型となりました。

<初代中村富十郎の舞踊>

初代中村富十郎(なかむらとみじゅうろう)は宝暦から天明年間(1751~1789)の所作事の名人です。初代富十郎は、宝暦時代より前に作られた「道成寺物」の舞踊を集大成した『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』(通称『娘道成寺』)を上演します。娘の恋をメドレー式に華やかにつづったこの作品は大好評でした。若い女性の着物に振袖が登場したのもこの頃で、女方の所作事にも振袖の衣裳が使われるようになりました。

<少女の舞踊の出現>

女方の舞踊は、傾城か姫・娘が主人公のものでしたが、天明時代になると少女の舞踊が登場します。それが、3代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう)の『羽根の禿(はねのかむろ)』です。お正月に羽根を突く少女の無邪気な踊りで、まだ恋の物思いを知らない女の子の舞踊が誕生したのです。それから数年後には、4代目岩井半四郎(いわいはんしろう)も、まだ恋を知らない女の子が寺子屋の帰りに道草をする風景を舞踊にしました。普通の少女の日常を描くという点が当時としては画期的でした。

舞踊劇の盛行

<立役の舞踊の登場>

江戸時代中期(18世紀中期)には立役の舞踊も登場します。それまでは舞踊は女方の担当でしたが、常磐津(ときわず)の発達と共に、立役が主人公の舞踊が作られ、演劇性の高い「舞踊劇」が生まれました。女方の舞踊が恋の思いを描いているのに対し、立役の舞踊は男の野望を描いています。

立役の舞踊を開拓したのは9代目市村羽左衛門(いちむらうざえもん)で、『蜘蛛糸梓弦(くものいとあずさのゆみはり)』(明和2年初演)を上演しました。悪霊である蜘蛛の精が、禿(かむろ)や座頭(ざとう)、山伏(やまぶし)に化け、源頼光(みなもとのらいこう)の命をねらう舞踊です。これが原型となり、改作を繰り返されて、現在の『土蜘(つちぐも)』になりました。

<立役の舞踊の大成>

初代中村仲蔵(なかむらなかぞう)は立役の舞踊を推進します。『関の扉(せきのと)』の関兵衛(せきべえ)や『戻駕(もどりかご)』の浪花の次郎作(なにわのじろさく)など、天下を狙うスケールの大きい悪人を描き、舞踊劇を大成させました。この2つの曲は現在も上演されています。

<常磐津の発生>

舞踊劇が発展した背景には、常磐津の発生が挙げられます。常磐津は舞台上に出て語る「出語り」という形式で演奏されます。歌の部分と語りの部分のバランスが良く、ドラマ性のある舞踊劇に適していましたから、常磐津の舞踊が多く作られ、流行しました。常磐津の元となった豊後節(ぶんごぶし)は、江戸時代中期に流行し、心中物を得意としましたが、風紀を乱すとして禁止されました。その後、常磐津が豊後節の流れを受けて誕生したのです。

変化舞踊の流行

<変化舞踊のレビュー化>

文化文政の時代(1804~1830)になると、変化舞踊(へんげぶよう)が大流行します。変化とは妖怪変化のことで、1人の演者が次々と扮装を変え、何役にも扮して踊る舞踊を、変化舞踊といいました。元は神霊などの核となるがあり、それが悪人を困らせるためなどの理由で、様々に姿を変えて現れるという形式でした。しかし、時代と共にこの核となる役がなくなり、演者が単に次から次へと様々な扮装で踊る、レビュー式の舞踊になります。このように変化舞踊は、時代と共に構造をなくしていきました。

<風俗舞踊の流行>

文化文政の頃(1804~1830)までは、立役は原則として女のを演じないというような決まり事がありました。女の役を演じる女方、男の役を演じる立役と、1人の演者は1つの役柄と決まっていました。けれども文化文政の時代になると立役が女の役も演じるようになり、役柄という決まり事が崩れてきました。そして色々な役を演じ分けられる演者が名優だと考えられるようになりました。こうして1人の演者が様々な役を演じるようになると、変化舞踊(へんげぶよう)で変化する数も増え、八変化や十二変化などと数の多い作品が生まれます。また、当時の人々は下流の庶民の様相をリアルに描いた「生世話(きぜわ)」という歌舞伎のジャンルを好んでいましたから、舞踊でも町中で日常的にみかける風俗がそのまま舞踊に取り入れられたのです。これを風俗舞踊といい、変化舞踊の中に多く組み込まれました。

<舞踊の名手の競争>

文化文政の時代(1804~1830)の舞踊の名手は、3代目坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)と3代目中村歌右衛門(なかむらうたえもん)です。3代目三津五郎が七変化(しちへんげ)の『七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)』を上演すると、それに対抗して、すぐに3代目歌右衛門が七変化の『遅桜手爾葉七字(おそざくらてにはのななもじ)』を上演するなど、2人のライバル争いから様々な舞踊が生まれました。また、あまり舞踊を得意としなかった7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)も、八変化『また茲姿八景(またここにすがたはっけい)』を上演するなど変化舞踊は大流行します。

こうして流行した変化舞踊は、現在では1コマ1コマが独立して上演されています。『七枚続花の姿絵』の中の『汐汲(しおくみ)』、『遅桜手爾葉七字』の中の『越後獅子(えちごじし)』、『また茲姿八景』の中の『近江のお兼(おうみのおかね)』などの演目を今でも見ることができます。

能狂言の影響

<新時代の高尚趣味>

明治時代(1868~)に入ると文明開化の影響を受けて、能や狂言を元にした舞踊が数多く作られます。江戸時代には、能や狂言は武士階級のもので格調高く、歌舞伎は庶民向けの低俗な芸能とされていました。また能や狂言には、歌舞伎にあるような、男女の色模様や残酷なシーンがありません。そのため、紳士淑女が鑑賞するのにふさわしい、高尚で上品な内容の演劇を目指した歌舞伎舞踊に、能や狂言が取り入れられたのです。これらの作品のうち、松羽目という能舞台を模した背景で演じられるものを「松羽目物(まつばめもの)」といいます。

こうした舞踊の改革は、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)と5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)が推進しました。9代目團十郎は『紅葉狩(もみじがり)』『鏡獅子(かがみじし)』、5代目菊五郎は『土蜘(つちぐも)』など多数の作品を初演しました。

<狂言舞踊の創造>

明治時代(1868~)前半の9代目市川團十郎と5代目尾上菊五郎の舞踊の改革の流れを受け、明治時代後半から大正にかけて、6代目尾上菊五郎と7代目坂東三津五郎が狂言を元にした舞踊を作り、成功を収めます。まず、狂言の『花子(はなご)』を歌舞伎舞踊化した『身替座禅(みがわりざぜん)』が大好評を得、『棒しばり(ぼうしばり)』『太刀盗人(たちぬすびと)』など数多くの舞踊が作られました。昭和以降も、能や狂言の舞踊化は盛んに行われました。

新舞踊の時代

<新舞踊運動>

明治時代(1868~)になり、歌舞伎舞踊が格調高い作品の創造を目指すのと同時に、歌舞伎舞踊から離れた新しい舞踊の創造が奨励されました。坪内逍遙(つぼうちしょうよう)が発表した『新楽劇論(しんがくげきろん)』により、「欧米諸国にわが国の文明の理想と品位を示し、国民の啓蒙となるべき舞踊劇を作るべきだ」ということが説かれたのです。逍遙は自らも『新曲浦島(しんきょくうらしま)』という舞踊劇を作りましたが、雅楽や民謡など日本のありとあらゆるものを集大成したこの曲は、あまりに壮大で実現することはできませんでした。けれどもその後、逍遙は『お夏狂乱(おなつきょうらん)』などの簡略な一幕物(ひとまくもの)を発表して、舞踊界に大きな影響を与えました。

<2代目市川猿之助の活動>

大正時代(1912~)になると2代目市川猿之助(いちかわえんのすけ)が、ヨーロッパの視察から戻り、そこで得たロシアン・バレエの知識を生かした、歌詞のない舞踊『虫』を上演し話題となりました。これに続き、5代目中村福助(なかむらふくすけ)の「羽衣会(はごろもかい)」、7代目尾上栄三郎(おのええいざぶろう)の「踏影会(とうえいかい)」といった勉強会が発足し、試験的な創作舞踊が上演されるなど、歌舞伎の域を離れた舞踊が作られていきました。

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