歴史

隆盛と古典化

幕府の保護のもと、能と狂言は武家社会の芸能として定着します。

桃山文化と秀吉

隆盛と古典化

『北野演能図屏風』部分
桃山時代
(国立能楽堂所蔵)

室町幕府の衰退によって勢いを失いかけた能ですが、戦国の武将たちに庇護されます。とくに、自らを主人公にした演目を作らせた太政大臣・豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、大和四座(やまとよざ)の身分を保証し領地を与えるとともに、他の座もこの四座に再編させるなど、大きな変革を行いました。また、京都・大阪での商工業の発展を背景とする桃山(京都の地名)文化のなか、技術の進歩や貿易による豊かな物資を得て、能の装束(しょうぞく)は一段と豪華になります。舞台の様式も確立され、能面の型もほぼ決まるなど、現在に続く能の形式が、この時代にほぼ整いました。

徳川幕府と武家の式楽(しきがく)

『町入御能拝見之図』

城内の能舞台で武士とともに町民が能を見る様子
『町入御能拝見之図』
楊洲周延
(国立能楽堂所蔵)

江戸時代(17~19世紀)になると徳川幕府は、豊臣家による保護政策をさらに押し進め、猿楽を幕府の式楽[儀式用の公式な芸能]と定めました。大和四座に加え、能には新しい一流派も加わります。地方の各藩も同様に、専属の演者を召しかかえ、能と狂言は武家社会の芸能として定着していったのです。各座には安定した地位と経済基盤が与えられる一方で、技芸の向上や伝統の継承も厳しく求められました。即興性が強かった狂言にも、流派ごとに演目や演出の違いが現れ、しだいに台本も整備されていったのです。

謡本(うたいぼん)と仕舞(しまい)の普及

謡本(うたいぼん)と仕舞(しまい)の普及

『新改正大増補/万葉小諷千秋楽』
(立命館大学アート・リサーチセンター所蔵)

幕府の式楽となることで、一般民衆が能や狂言に接する機会は限られてしまいましたが、裕福な町人の関心は高く、教養のひとつでもあったようです。町人にも観覧が許される機会が、江戸城内などで催されることもありました。「謡(うたい)」は、すでに広い階層で親しまれていましたが、江戸時代には能の詞章を記した謡本が数多く刊行され、流行を後押しします。また、面や装束をつけずに能の一部を舞う「仕舞」を習う人も増えました。