歴史

大成と発展

観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)によって、猿楽(さるがく)は高い芸術性を備えた芸能へと発展します。

大和四座(やまとよざ)と観阿弥

興福寺南大門の薪能

興福寺、薪能の様子。大和四座によって猿楽が演じられている
『奈良水屋能図』
(永青文庫所蔵)

猿楽の座のなかでも、とくに大和国(やまとのくに:現在の奈良県)を中心とした4つの座の活動はめざましく、これらが現在の能の流派へと繋がっているようです。なかでも、室町時代(14~16世紀)に猿楽の一座を率いていた観阿弥(1333 – 1384年)は、優れた演者として人気を集めるだけでなく、田楽(でんがく)の歌舞的な要素や、当時流行していた他の芸能の特長なども、積極的に猿楽へ取り入れました。そして、息子・世阿弥とともに、のちの能を大成させていったのです。

世阿弥と室町幕府

世阿弥と室町幕府

『二曲三体人形図』天女舞の図
世阿弥の能伝書を金春禅竹が写したもの
(野上記念法政大学能楽研究所所蔵)

芸能を好んだ、室町幕府の3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は、観阿弥とまだ12歳だった世阿弥の猿楽を見物しました。父子の芸をたいへん気に入った義満は、彼らを手厚く保護します。寺社の祭礼などで演じられ、民衆の芸能だった猿楽や田楽は、その頃から将軍や貴族たちによって積極的に愛好されるようになったのです。彼らの鑑賞に応えられるように古典文学などの高い教養を身に付けた世阿弥は、優美で上品な芸風を猿楽に取り入れます。そして、美しい歌舞を中心とした、劇形式の芸能である能を作り上げるとともに、『風姿花伝(ふうしかでん)』など多くの芸術論を著しました。能の発展とともに、笑いを誘うせりふ劇として成立しつつあった狂言も、能の座に組み込まれ、能と交互に上演されるようになっていきました。

後継とひろがり

世阿弥を継ぐ者として、甥の音阿弥(おんあみ)や、娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)などが活躍します。音阿弥は世阿弥をしのぐといわれるほど演技がうまく、また金春禅竹は創作や理論に優れていました。その後、応仁の乱(1467~1477年)など、将軍家や他の武家が入り乱れる激しい内戦によって、世の中は大いに荒廃し、猿楽の座は、幕府や寺社などの後ろ盾を失ってしまいます。しかし、能は一般民衆のなかへも広まっていき、にぎやかでわかりやすい作風が生まれるとともに、能の詞章「謡曲(ようきょく)」をうたう「謡(うたい)」という声楽が、広い階層で親しまれるようにもなりました。

後継とひろがり

謡本『さくら川』
室町時代
(国立能楽堂所蔵)

後継とひろがり