歌舞伎への誘い 〜鑑賞の手引き〜
歌舞伎の歴史
猿若町の誕生
1841年[天保12年]、文化・文政年間[1804年〜1830年]に緩んだ風紀を引き締め、幕府を立て直すことを目的として、老中の水野忠邦(みずのただくに)は天保の改革(てんぽうのかいかく)を開始します。
庶民の娯楽の代表であった歌舞伎も、その取締りの対象となりました。水野は歌舞伎の廃止まで検討しましたが、最終的には、1842年[天保13年]、市街地にあった官許の芝居小屋[中村座・市村座・河原崎座]に対し、郊外の浅草への移転を命じます。同時に、俳優をはじめとする芝居関係者も芝居小屋周辺に住むことを命じました。また当時を代表する俳優5代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)[前名7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)]は、贅沢な小道具や衣裳など使用したことなどを咎められ、江戸から追放を命じられました。
 
賑わう猿若町の様子(『東都名所芝居町繁栄之図』)
 
これらの幕府による命令に、歌舞伎界は大きな衝撃を受けます。浅草に移転した芝居小屋の周辺は、猿若町(さるわかまち・さるわかちょう)と名づけられますが、当初は立地が悪いこともあり、観客もなかなか集まりませんでした。

しかし水野忠邦が失脚すると徐々に改革の空気も緩みはじめ、猿若町も賑わいを見せ始めます。この猿若町に芝居小屋がおかれた幕末の約30年間は、「猿若町時代」とよばれています。
 
 
 
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