歌舞伎への誘い 〜鑑賞の手引き〜
歌舞伎の歴史
歌舞伎十八番の制定
5代目松本幸四郎(まつもとこうしろう)の後に、江戸歌舞伎の中心を担った7代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)は、1832年[天保3年]、息子に8代目團十郎を襲名させて自らは5代目市川海老蔵(いちかわえびぞう)を名乗ります。このとき「歌舞妓狂言組十八番(かぶききょうげんぐみじゅうはちばん)」として、18の演目を明記した刷り物を配りました。これらの演目は、初代・2代目・4代目の團十郎が得意とした様式的な「荒事(あらごと)」の役が登場するものでした。
海老蔵のこの動きの背景には、江戸歌舞伎を代表する家系として「隋市川(ずいいちかわ)」[随一と市川を掛けた褒め詞]と称された市川團十郎家の権威を再認識させたいという願望がありました。
 
『勧進帳』の弁慶を演じる5代目市川海老蔵
 
そして1840年[天保11年]、海老蔵は『勧進帳(かんじんちょう)』を初演するにあたり、「歌舞伎十八番」という名称を初めて使用しました。幕末から明治にかけて、海老蔵や息子の8代目・9代目の團十郎が、制定された演目を積極的に上演したため、次第に「歌舞伎十八番」という名称は定着していきます。
「歌舞伎十八番」の影響を受けて、明治時代に入ると團十郎家以外の家系、あるいは俳優個人についての当たり役を「家の芸」として制定する動きが出てきます。「歌舞伎十八番」に対抗して5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)が制定した「新古演劇十種(しんこえんげきじっしゅ)」は、その代表といえます。
 
 
 
 
 
 
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