歌舞伎への誘い 〜鑑賞の手引き〜
歌舞伎の歴史
義太夫狂言の流行
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作者に復帰して以降、歌舞伎では優れた作者は登場しませんでした。
そのような背景もあり、1715年[正徳5年]、近松作の人形浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が大評判になると、翌年には歌舞伎に移して上演されました。この『国性爺合戦』の上演以降、人形浄瑠璃の人気作を歌舞伎の舞台で上演することが、盛んに行われるようになります。このようにして上演された作品を「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」とよびます。
享保から宝暦年間にかけて[1716年〜1764年]人形浄瑠璃は全盛期を迎え、この時期に上演された人気作は次々と歌舞伎化されていきます。なかでも『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』・『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』・『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』は再演を繰り返し、「義太夫狂言」の3大名作と称されるほどになりました。これらの「義太夫狂言」は、現在の歌舞伎のレパートリーにおいても、大きな割合を占めています。
 
人形浄瑠璃の『菅原伝授手習鑑』「車曳の段」を描いた錦絵
 
歌舞伎で演じられた「車引の場」を描いた錦絵
 
しかし、反対に歌舞伎が人形浄瑠璃に影響を与えるケースもありました。例えば初代澤村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)が演じた『大矢数四十七本(おおやかずしじゅうしちほん)』の大岸宮内(おおぎしくない)役は、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)役に影響を与えたとされています。
このように歌舞伎と人形浄瑠璃は、相互に影響を与えながら発展していきます。
 
 
 
 
 
 
前へ 次へ