わが国の“動く(あるいは動かす)人形”の歴史は相当古いと考えられます。少なくとも平安時代には、人形遣いを職業とする芸人の集団があって、諸国を放浪していたようです。この人形舞わしの人々は、“傀儡子(かいらいし・くぐつまわし)”と呼ばれました。13世紀ごろになると傀儡子は、放浪の生活から、寺や神社と結んで定住するようになり、16世紀末には浄瑠璃と結びつくことによって、人形舞わしの芸は大道から小屋がけに移りました。しかし、はじめのころは小屋とは名ばかり、人間の背丈ぐらいの高さの幕を張って、その陰から人形を幕の上に差し出して動かす形式で、もちろん浄瑠璃も幕の陰で演奏しました。人形には足がなく、すそから手を突っ込んで操るので、人形の手は動きますが簡単な動作しかできません。竹本座が開場したころは、まだ人形も小さい一人遣いの形でしたが、しだいに改良されてゆき、亨保(きょうほう)19年(1734)に三人遣いが考案されたといわれています。その二年後には人形を二倍に大きくして、以後現在の人形に近い大きさがきまったとされています。 また、その舞台も、三人遣いの完成と共にほぼ現在の形式に定まったと思われます。


竹豊両座がなくなってから衰える一方だった操り浄瑠璃でしたが、文化年間(19世紀はじめ)に大阪の高津橋の近くに小さな浄瑠璃の小屋が開かれ、文化8年(1811)には稲荷(いなり)神社境内に進出するようになりました。経営者は植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)という人で、明治5年(1872)に松島に移ってから、はじめて“文楽座”と正式に名乗ったのです。


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