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歴史

三方楽所と第二の盛期

宮廷社会と雅楽の衰退

長い戦乱によって、京都は荒廃します。宮廷社会がさらに衰退するなか、楽人たちも離散してしまいました。この大きな雅楽の危機を救ったのは、天王寺[大阪]や南都[奈良]の楽家でした。世襲によって技芸が受け継がれていただけでなく、古くからの雅楽についての伝承を楽人たちが記した、楽書(がくしょ)と呼ばれる書物や楽譜も多く残されていたことにより、衰退の危機を乗り越えられたのです。

戦乱がようやく収まりかけた桃山時代、天王寺や南都の楽人が朝廷に呼び寄せられました。それぞれに残されていた伝承を集成することで、京都の雅楽を復興しようとしたのです。ここから、京都・南都・天王寺の三方の楽書が集まり、合同で朝廷の儀礼の奏楽をおこなう「三方楽所(さんぽうがくしょ:「さんぽうがくそ」とも)」という伝統が生まれました。

三方楽人と紅葉山楽人

『洛中風俗図屏風』部分
元和2(1616)年ころの京都、紫宸殿の庭で舞楽が行われている

天下を統一した豊臣秀吉が、自らの邸宅でもあった聚楽第(じゅらくだい)へ天皇を招いたときに奏された雅楽は、三方の楽所の合同によるものでした。華やかな宮廷文化を再現するような、盛大な宴であったようです。

復興へ向かい始めた雅楽は、続く徳川幕府によっても、厚い庇護を受けることになります。徳川家の祭祀の奏楽のために、三方楽所の楽人の一部が江戸に呼ばれました。江戸城の紅葉山に常駐した楽人は、紅葉山楽人(もみじやまがくにん)とよばれ、三方楽所の楽人とともに、雅楽の伝統を担っていきました。その数は、双方の楽人を合わせると100人に及んでいたといわれます。江戸時代の雅楽は、こうして平安時代に次ぐほどの隆盛を迎えました。

三方及第と国風歌舞の復興

江戸時代において、楽人の技芸を磨き、雅楽を洗練させたものの1つに、三方及第(さんぽうきゅうだい)という試験がありました。これは、幕府から支給される所領の配分をめぐって、楽人の技量を評価する、厳正な試験制度です。原則として4年に1度催され、およそ200年にわたって続けられました。

一方、楽人たちだけでなく、儒学や国学などの学者も加わって、雅楽の歴史や理論についての研究が進められたのも、この時代です。江戸だけでなく、地方の藩においても雅楽は取り入れられ、さまざまな研究業績が残されました。また、公家や武家、僧侶や神官たちだけでなく、町人や農民などのあいだでも愛好されるなど、時代とともに雅楽は広く普及していったようです。

こうした技量の向上や研究の深まりを背景として、戦乱や長い時間のなかで失われた曲目などの復興も、多く手がけられました。たとえば、宮廷の儀礼や祭祀と密接にかかわっていた国風歌舞(くにぶりのうたまい)は、朝廷の衰退によって長く途絶えていました。また、歌物(うたもの)も、時代による流行もあって多くの伝承が失われていました。しかし、江戸時代の熱心な研究によって、これらの歌舞の曲目が多く復興されることになり、その成果が現在まで伝えられているのです。

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