雅楽 GAGAKU

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歴史

交流と楽舞の活況

雅楽寮の設置と内教坊

古くから歌や舞を重んじてきた日本では、楽舞をつかさどる楽官(がっかん)という制度が、すでに7世紀からありました。

日本で初めて制定された(701年)本格的な法律である、大宝令(たいほうりょう)には、宮廷でおこなわれる種々の楽舞の演奏や伝習を行う公的な機関として、「雅楽寮(ががくりょう:「うたまいのつかさ」とも)」が設置されました。日本の雅楽の歴史は、この雅楽寮で扱われた楽舞や歌舞に始まります。雅楽寮には、歌人・舞人・楽師など数百人もの人々が配属され、当時の官庁のなかでももっとも大きな規模を備えていました。

雅楽寮のほかにも、女楽(おんながく)といって、女性の舞い手や歌い手も宮廷儀式の奏楽を担当することがあり、これは「内教坊(ないきょうぼう)」という組織で管理されました。また、雅楽寮は、時代とともに渡来系の楽舞に重点を移すようになり、日本古来の歌舞は、平安時代に設置された「大歌所(おおうたどころ)」で管理するようになりました。

その後、雅楽の伝承の中心は、宮廷内や寺社などへ置かれた「楽所(がくしょ)」へ移っていきます。

遣唐使による伝来

随によって統一された中国は、続く唐の時代にはより強大な国家となり、大いに栄えました。唐楽のもととなった宮廷音楽などの文化をはじめ、社会的な制度や宗教などを日本へもたらしたのが、200年以上にわたって続いた遣唐使です。十数年~二十数年おきに派遣された彼らが伝えた先進の文化は、日本に大きな影響を与えます。たとえば、二度も唐へ渡った吉備真備が、海難に遭いながらも持ち帰った『楽書要録』は、唐の高度な音楽理論を著す体系的な音楽書でした。

一方で、唐から渡ってきた音楽は多様でもあり、奈良時代には「唐古楽」「唐散楽」「唐中楽」「唐女楽」など、さまざまな種類があったようです。これらは日本の雅楽寮で扱われ受け継がれていくなかで、しだいに「唐楽」として1つのかたちにまとめられていったのです。

東大寺大仏開眼会

朝鮮半島や中国大陸から伝えられた雅楽は、奈良時代には日本へ定着し、朝廷や寺院などにおいて、日本古来の歌舞とともにさかんに奏されるようになります。

さまざまな楽舞が、まだ輸入されたままのかたちを残していた、奈良時代の半ば。やはり大陸からもたらされ大いに隆盛していた、仏教と結びついて催された最大の行事が、東大寺の大仏開眼供養会です。

「奈良の大仏」で知られる東大寺の盧遮那仏(るしゃなぶつ)に、目を描き入れるこの法要は、天平勝宝4(752)年4月9日に行われ、1万数千もの人が列席する盛大なものでした。本堂の前で催された舞楽会においては、日本古来の歌舞から大陸伝来の楽舞にいたるまで、さまざまな楽舞が奏されたという記録が残っています。

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