雅楽 GAGAKU

歴史

楽人列伝

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  • 明治時代以降

大戸清上(おおとのきよがみ:?~839年)

河内国(かわちのくに:現在の大阪府)に生まれ、仁明天皇(にんみょうてんのう:在位833~850年)の時代に活躍した日本の雅楽の最初の本格的な作曲家とも呼べる人物です。新作や改作を多数行い、清上の作・改作と伝わる曲として『承和楽(しょうわらく)』『胡飲酒(こんじゅ)』『海青楽(かいせいらく)』などが伝わっています。

笛を清瀬宮継(きよせみやつぐ)に習い、その技法をきわめ、雅楽寮に出仕する一方で、仁明天皇の笛の師もつとめ、承和元(834)年には良枝宿祢(よしえのすくね)の姓を賜りました。

清上は遣唐使として唐に渡って最新の楽を学ぶことを望み、その思いをこめて作った曲は後に『清上楽(せいじょうらく)』と名づけられて「諸曲の中、殊善の作」と評されました。清上の願いは叶い、事実上最後となった承和の遣唐使として藤原貞敏(ふじわらのさだとし)などとともに入唐しましたが、帰国の際に逆風に遭い南海の賊(ぞく)が出没する土地に流されて、賊に殺されてしまったと史書に記されています。

清上の笛の弟子は数多く、和邇部大田麿(わにべのおおたまろ)をはじめとして、左大臣源信(みなもとのまこと)、右衛門督源生(うえもんのかみみなもとのいける)、勝弟扶(かちのおとすけ)、雅楽属秦庭経(うたのさかんはたのにわつね)、笛師常世弟魚(ふえのしつねよのおとうお)、近衛出雲真長(このえいずものまなが)らが知られています。

尾張浜主(おわりのはまぬし:生没年不詳)

大戸清上(おおとのきよがみ)が平安初期の作曲に秀でた代表的な人物であるのに対して、作舞に才能を発揮したのが尾張浜主でした。

浜主は、仁明天皇(にんみょうてんのう:在位833~850年)の承和の大嘗会(だいじょうえ:天皇が即位後初めて行う新嘗祭に行われる宴)のときに、『河南浦(かなんふ)』『応殿楽(おうてんらく)』『拾翠楽(じっすいらく)』の舞を作ったと伝えられています。また承和12(845)年正月8日の大極殿(だいごくでん)において行なわれた国の平和を祈る儀式、最勝会(さいしょうえ)では「七代(ななつぎ)の 御代(みよ)に遇(まわ)へる 百余(ももちま)り 十(とお)の老翁(おきな)の舞(まひ)奉献(たてま)つる」という和歌を詠み、大極殿の龍尾道(りゅうびどう)とよばれる道の上で『和風長寿楽(わふうちょうじゅらく)』を舞いました。このとき浜主は113歳であったと史書に記されています。背が曲がってしまい日常生活にも不自由する老翁が、軽快に舞う姿は少年のようであり、1000人を数えた観衆は、近代にない舞人と賞め称えました。

浜主は翌々日にも天皇に召されて内裏にある清涼殿(せいりょうでん)前で『長寿楽(ちょうじゅらく)』を舞い、「老翁(おきな)とて 侘(わび)やは居(お)らむ 草も木も 栄ゆる時に 出でて 舞てむ」の和歌を詠み、御衣(ぎょい)一襲(ひとくだり)を賜りました。また、翌年には114歳の高年をうやまって、貴族とされる従五位下の位が授けられました。

和邇部大田麿(わにべのおおたまろ:798~865年)

大戸清上(おおとのきよがみ)に気骨(きこつ)があるとして見いだされ、清上の後継者となった笛の名手です。

天長元(824)年頃に雅楽寮の百済(くだら)笛師に任じられて、ついで唐(とう)横笛師となり、以降は雅楽少属(しょうさかん)、大属(だいさかん)などを歴任し、一方では、清和天皇(せいわてんのう:在位858~876年)の笛の師もつとめました。貞観3(861)年正月には宮中での私的な宴、内宴で奏した笛が「伎術、出群」として称されて、外従五位下(げじゅごいのげ)の位を授かりました。

大田麿は笛譜(てきふ)も編纂し、その楽譜は宜陽殿(ぎようでん)と呼ばれる殿舎(でんしゃ)に納められていたことから「宜陽殿竹譜」と称されたといわれていますが、現存していません。作曲にも秀で、清上と同様に新作曲、改作曲を多数残し、大田麿作(あるいは改作)と伝わる曲は現行曲では『賀殿破(かてんのは)』『春庭楽(しゅんでいらく)』などです。

晩年の貞観3(861)年3月14日に行なわれた東大寺無遮大会(とうだいじむしゃだいえ:大仏御頭供養会ともいう)では『天人楽』を作曲し、当日の奏楽の中心的役割も果たしました。大田麿は日本神話上の皇族である天帯彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫を自称していました。

藤原貞敏(ふじわらのさだとし:807~867年)

  • 藤原継彦(つぐひこ)の子
  • 従五位上

藤原不比等(ふひと)の四男の藤原麻呂にはじまる京家の出身です。

幼いころから音楽を愛好し、とくに琵琶(びわ)を得意としていました。承和5(838)年には遣唐使准判官(じゅんほうがん)となり、実質上最後となった承和の遣唐使として唐へわたりました。『琵琶諸調子品(びわしょちょうしぼん)』によると、唐では楊州開元寺(ようしゅうかいげんじ)で廉承武(れんしょうぶ)に琵琶を学び、楽譜を送られていました(注)。

承和6(839)年に帰国すると10月1日には、天皇の御前で琵琶を弾きました。その後、承和8(841)年に雅楽助(うたのすけ)となり、承和14(847)年に雅楽頭(うたのかみ)となります。天安2(858)年まで雅楽頭の地位にあり、在任中の嘉祥元(848)年には雅楽寮の人員改訂を行いました。史書には「他に才芸なし。琵琶をよく弾くを以て、三代に歴仕す。」と記されています。

日本の琵琶の相承(そうしょう)の祖として位置づけられ、相承の系譜は廉承武——藤原貞敏の系譜から始めるのが常となっています。貞敏が唐より伝えた楽譜を平安中期に書写した楽譜が、宮内庁書陵部(しょりょうぶ)に伝来しています。

(注)『日本三代実録』では異伝をのせており、劉二郎(りゅうじろう)に学び、楽譜数十巻や紫壇(したん:暗赤色の木材)、紫藤(しとう:フジの和名)の琵琶各一面が贈られたとされています。

貞保親王(さだやすしんのう:870~924年)

  • 清和天皇[在位858~876年]の第四皇子で、母は藤原高子(ふじわらのたかいこ)

南宮(なんぐう)、桂親王と号し、管絃仙などとも呼ばれた管絃の名手で、笛、琵琶をはじめ、和琴(わごん)、尺八までもこなしました。笛は上霧(うわぎり)という、息を多くつかい、鞨鼓(かっこ)の拍子をそらす奏法で吹いたという伝説があります。また当時中絶していた『王昭君』を尺八の楽譜から復興したことも伝えられています。

延喜21(921)年に勅命を受け、最初の勅撰楽譜となる『新撰横笛譜(しんせんおうてきふ)』を編纂しました。この『新撰横笛譜』は、本文は現存していませんが、序文が鎌倉後期成立の雅楽書『続教訓抄』などに引用されて伝わっており、源博雅(みなもとのひろまさ)の『新撰楽譜』とともに、「天下の証譜」(『文机談(ぶんきだん)』)として重要視されました。横笛譜編纂の後には、敦実親王(あつみしんのう)へ琵琶(びわ)の秘曲等を伝授し、同年に楽譜を授けました。その内容を伝える琵琶譜は、現在も宮内庁書陵部に伝存されています。

源博雅(みなもとのひろまさ:918~980年)

  • 醍醐天皇[在位:897~930年]の第一皇子克明親王(よしあきらしんのう)の子、母は藤原時平(ふじわらのときひら)の娘
  • 博雅三位(はくがのさんみ)と呼ばれる

横笛(おうてき)、琵琶、大篳篥(おおひちりき)、和琴(わごん)、箏などに秀でた管絃者で、催馬楽(さいばら)も得意としました。

博雅の管絃の名声はとりわけ高く、逢坂山(おうさかやま:滋賀県大津市)に住み和歌や琵琶(びわ)に秀でた蝉丸(せみまる)のもとで秘曲『流泉(りゅうせん)』『啄木(たくぼく)』を学ぶために、3年間毎夜通い、8月15日の夜にようやく伝授されたこと(『今昔物語』等)、鬼に奪われた琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を取り戻したこと(『今昔物語』)、平安京大内裏の門の1つ、朱雀門(すざくもん)の前で、鬼と笛を取り換え、その笛が後に「葉二(はふたつ)」と名付けられたこと(『十訓抄(じっきんしょう)』)、博雅の家に入った盗人が博雅の吹く篳篥(ひちりき)を聞き、感動のあまり改心したこと(『古今著聞集』)など、管絃の才能にまつわる説話が数多く残されています。

しかし、天徳4(960)年、詠んだ歌の優劣を競う歌合(うたあわせ)という遊びで講師(和歌を読み上げる役)をつとめたさいに和歌の順番を間違えてしまったり、藤原実資(ふじわらのさねすけ)が記した『小右記(しょうゆうき)』では「博雅は文筆、管絃に優れた者であるが、天下の懈怠(けたい:なまけ、おこたるの意)の白物である」と書かれてしまったりなど、当時の人々にはあまり評判は良くはなかったようです。

博雅は、康保3(966)年に村上天皇[在位946~967年]の勅命を受けて、『新撰楽譜』という横笛の楽譜集成を編纂しました。『新撰楽譜』は、「長秋卿横笛譜」「長秋卿竹譜」「博雅三位譜」などとして古来名高く、楽譜の一部分は、後世の書写のかたちで現代にも伝えられています。

源経信(みなもとのつねのぶ:1016~1097年)

  • 父は民部卿道方(みんぶきょうみちかた)、母は源国盛(みなもとのくにもり)の娘で、桂大納言(かつらだいなごん)と号した

父の道方は『枕草子』に「道方の少納言、琵琶いとめでたし」と記された琵琶(びわ)の名手でした。経信も琵琶に秀で、白河天皇[在位1072~1086年]の承暦年間[1077~1081年]に飛香舎(ひぎょうしゃ:平安京内裏にある建物)に召された琵琶の明匠(名人の意)8人にも含まれています。

経信の琵琶は源資通(みなもとのすけみち:1005~1060年)から学び、その流儀は桂流といわれました。当時の琵琶には西流と称する流儀もあり、鎌倉前期の『胡琴教録(こきんきょうろく)』などの楽書によると、桂流の経信と同時代の琵琶の名手である西流の院禅(いんぜん)では同じ曲でも弾き方が異なっていました。

経信が師の資通の伝を書きとめた自筆の琵琶譜(びわふ)が、経信の教え子の後二条関白藤原師通(ふじわらのもろみち:1062~1099年)、その子孫の九条兼実(くじょうかねざね:1149~1207年)などを経て、今日も宮内庁書陵部に伝存しています。

さらに経信は管絃のみならず、漢詩、和歌にも秀で、藤原公任(きんとう)とともに「三舟(さんせん)の才」に数えられ、「朝家(ちょうか:皇室の意)の重臣」(『中右記(ちゅうゆうき)』)などともいわれました。

大神基政(おおがのもとまさ:1079~1138年)

  • 八幡宮の所司(しょし:別当のもとで社務をつかさどる職)の子
  • 従五位下
  • 八幡山井に住み、山井と号した

基政がまだ石清水八幡の童であったころ、八幡の別当(べっとう:長官)の頼清(よりきよ)に横笛(おうてき)の天性を見出されました。頼清は大神惟季(おおがのこれすえ)を呼び、大曲の『皇帝破陣楽(おうだいはじんらく)』に至るまでことごとく基政に習得させました。基政は子供のいない惟季の養子となり、大神流(おおがりゅう)を確立しました。故実[昔の儀式などの規定や習慣]に通じていて、大法会[だいほうえ:落慶供養などの大規模な法要]の楽は基政に任せると欠けることなくめでたく行われたと、伝えられています。

当時横笛を専門に代々伝承する楽家(がっけ)では戸部家(こべけ)がすでに名高かったのですが、基政は戸部正清(こべまさきよ)とならび称され、以後、大神家と戸部家は南北朝時代まで互いに競い合いました。戸部家が室町時代に絶えて以降は、大神家が笛の相承の中枢を占め、20世紀後半まで存続しました。

基政は、女子2人のために楽曲の故実などを書き留めた『龍鳴抄(りゅうめいしょ)』、五家譜の1つに数えられる『基政笛譜(てきふ)』と呼ばれる横笛譜を編纂したことも知られています。

藤原師長(ふじわらのもろなが:1138~1192年)

  • 父は藤原頼長(ふじわらのよりなが)、母は源信雅(みなもとののぶまさ)の娘

妙音院(みょうおんいん)と呼ばれた楽道における最大の大家(たいか)です。「絃管のたぐひは申にをよばず、うち物・音曲・催馬楽・風俗・らうゑい・ざうげい・声明などまでも、ながれ家々の説をつくしもとめさせ給。」(『文机談(ぶんきだん)』)と言われたように、管絃はもとより、催馬楽、朗詠などの歌物から仏教音楽の声明(しょうみょう)にいたるまで、当時のあらゆる音楽を習い尽し、その奥義をきわめました。管絃の分野では『三五要録』[琵琶譜]、『仁智要録』[箏譜]の二大楽譜集成を残したことでも知られ、これらの楽譜は全巻が伝存し、平安朝の雅楽の姿を今に伝えています。

師長の生きた時代は源平がたがいに凌ぎをけずった激動の時代で、師長はその荒波にもまれ、生涯に2度の配流の憂き目にあいました。

19歳の保元元(1156)年、保元の乱の首謀者である父頼長の罪により、師長は土佐国(とさのくに:現在の高知県)に流されました。8年後の長寛2(1164)年に召し返されることになり、都に戻ることになりましたが、その折には、朗詠の「韓康ひとり、静かなすみか……」を詠じ、『賀王恩(がおうおん)』『還城楽(げんじょうらく)』を琵琶で奏でたと伝えられています(『十訓抄(じっきんしょう)』等)。

その後は、再び順調に官位をあげていき、太政大臣(だいじょうだいじん)にまでなりましたが、治承3(1179)年、師長42歳のとき、後白河上皇の近臣であったことから平清盛の逆鱗(げきりん)にふれ、今度は尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)に流されてしまいました。2年後に許され帰京した師長は、この時は盤渉調(ばんしきちょう)の『秋風楽(しゅうふうらく)』を奏でたということです(『平家物語』等)。配流(はいる)の地の名古屋市瑞穂区には、地下鉄の駅名にもなっている「妙音通」や、「師長町」など師長にちなんだ地名が残されています。

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