雅楽 GAGAKU

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演者のなりたち 楽所・楽家と楽人

雅楽の長い歴史は、それを管理した組織や受け継いだ楽人(がくにん)の歴史でもあります。雅楽の形式が組織によって整えられ、世襲や伝習のシステムと受け継ぐ人々の力によって、現在まで脈々と守り伝えられています。

雅楽を体系化した機関

5世紀から日本に渡来した楽舞や日本列島に伝わっていた歌舞は、宮中の機関によって形式や内容が整えられ、雅楽として体系立てられました。

大宝元(701)年に定められた大宝令[日本初の本格的な法律]によって、国家的な行事での演奏や奏者の育成を行う機関として雅楽寮(ががくりょう:「うたまいのつかさ」とも)が作られ、さまざまな楽舞が管理されることになりました。

そして、雅楽寮が渡来系の楽舞に重きを置くようになると、平安時代初期に在来の歌謡を専門に扱う機関として大歌所(おおうたどころ)も設置されました。一方、平安初期以降には、朝廷を警護する近衛府(このえふ)の官人も楽舞や歌舞に関わるようになりました。

これらの機関で扱われた音楽や歌、舞は、平安の王朝文化のなかで宮廷社会に深く浸透し、日本人の好みに沿うものへと形を変えて今日の雅楽の原形が大成します。

楽所、楽家の成立

活動が停滞する雅楽寮に代わって、新しい組織へと管理・伝承の中心が移っていきました。

律令制による古代国家が解体していくなかで、雅楽寮の活動も停滞し、平安後期以降には活動がともなわない形ばかりの存在になっていきます。

衛府(えふ:宮中の護衛などにあたった役所)の楽人(がくにん)らが内裏(だいり)で演奏するときに、控えのような場所として10世紀前半には、宮中に「楽所(がくしょ:「がくそ」とも」が設けられました。内裏での奏楽の機会が増えていくにつれて、次第に楽所が楽舞の中心的な機関となります。

また、法事などで雅楽の演奏を行っていた興福寺を中心とする南都[奈良]の諸寺や天王寺[大阪]などにも、楽所が置かれるようになりました。

このような楽所に所属した楽人たちが、父から子へと芸を受け継いだことから、やがて「楽家(がっけ)」と呼ばれる雅楽を伝承する特定の家系が生まれ、世襲化がすすみました。

世襲の伝習システムと楽人

雅楽の長い歴史の間で、伝承が途切れそうな危機的な時期を守ったのは、楽人たちの存在でした。

京の都が戦場となった応仁・文明の乱(1467~77年)によって、朝廷の儀式は衰退し、楽人はちりぢりとなったため、雅楽は衰退を余儀なくされました。この危機的な時期に、雅楽の復興を目指す動きが始まります。正親町天皇(おおぎまちてんのう:在位1557~86年)は天正14(1586)年に大阪の四天王寺の楽人5人を京都の宮廷に呼び寄せ、次の後陽成天皇(ごようぜいてんのう:在位1586~1611年)は、奈良の楽人3人を京都に移住させて、朝廷の雅楽を復興していきました。

こうして、京都・奈良・大阪の三方の楽人が集まり「三方楽所(さんぽうがくそ)」が設立され、所属する楽人たちは江戸時代の約260年間にわたって雅楽を継承していったのです。

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