文化・文政期(1804年〜1830年)には江戸の落語は隆盛を極め、文政末期には125軒もの寄席があったといいます。そして落語の内容にも変化が生まれました。役者の身振りをまねるのが得意だった初代三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)は、鳴り物(なりもの:三味線や笛、太鼓などの楽器)を入れて、芝居がかりとなる芝居噺を始めました。常磐津(ときわづ:浄瑠璃音楽の一種)の太夫(たゆう)だった初代船遊亭扇橋(せんゆうていせんきょう)は、浄瑠璃のいろいろな節調を語り分けるのが巧みなところから、音曲噺を始めました。また初代林屋正蔵(はやしやしょうぞう)は、仕掛けや人形を用いる怪談噺で人気を得ました。
さらに船遊亭扇橋の弟子の初代都々一坊扇歌(どどいつぼうせんか)は、三味線を弾きながら都々逸を歌ったり、三笑亭可上(さんしょうていかじょう)は、いろいろな目の表情を描いた目の部分だけの仮面をかけて人物を描き分ける『百眼(ひゃくまなこ)』を演じたりと、落語のいろどりとなる演芸も生まれました。
ところが老中・水野忠邦(みずのただくに)の天保の改革(天保12年〜14年[1841年〜1843年])で倹約令が出され、風俗取り締まりも行われました。200軒以上に増えた江戸市中の寄席は15軒に減らされます。しかし水野が失脚すると禁令もゆるんだので、再び落語は盛んになります。そして安政期(1854年〜1860年)には170軒に達しました。