10代将軍・徳川家治(とくがわいえはる)と11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の治世の時代であった天明・寛政期(1781年~1801年)頃、江戸に再び落語ブームが訪れました。大工が本業で、狂歌師・戯作者としても活躍した初代烏亭焉馬は、天明6年(1786年)に新作落とし噺の会を主催して好評を博しました。その後、定期的に会が開かれるようになり、江戸落語が再び盛んになります。こうして焉馬は江戸落語中興の祖と呼ばれるようになりました。
寛政期(1789年~1801年)になると、江戸で浄瑠璃や小唄、軍書読み、説教などが流行し、聴衆を集め、席料をとるようになります。これを寄せ場、あるいは寄せと呼び、現在の寄席につながっていきます。落語では寛政3年(1791年)に大坂の岡本万作(おかもとまんさく)が江戸へ下って、江戸で初めての寄席興行を行いました。また寛政10年(1798年)には、くし職人だった初代三笑亭可楽が寄席興行を行いました。これは失敗に終わりましたが、可楽は修行を続け、客に3つの言葉を出してもらい、その言葉を噺(はなし)の中に登場させて一席にまとめる三題噺や、線香が1分(ぶ)[約3ミリ]燃え尽きる短い間に即興で落とし噺を演じる一分線香即席噺(いちぶせんこうそくせきばなし)や、謎解きで人気を得ます。さらに優秀な門人も多数育て、江戸の職業落語家の元祖となりました。