秀吉(ひでよし)による天下統一

「本能寺の変」 から10年余りで、羽柴(はしば)[豊臣(とよとみ)]秀吉(ひでよし)は天下を統一しました。天下人にのぼりつめる秀吉の軌跡を追ってみましょう。

『賎ヶ岳合戦図屏風』 右扇

『賎ヶ岳合戦図屏風』 右扇
(長浜城歴史博物館所蔵)

『賎ヶ岳合戦図屏風』 部分

『賎ヶ岳合戦図屏風』 部分
(長浜城歴史博物館所蔵)

天正10年(1582年)6月27日の「清洲(きよす)会議」で、織田信長(おだのぶなが)の後継者は、羽柴[豊臣]秀吉が後見を務める、三法師丸(さんぽうしまる)[織田信忠(おだのぶただ)の嫡子]と決定しました。後継者争いに出遅れた信長の3男・信孝(のぶたか)は、柴田勝家(しばたかついえ)と信長の妹・お市(おいち)の方とを再婚させ、秀吉への対抗策としました。秀吉側は、三法師丸を渡さない信孝の岐阜城を包囲し、降伏させます。その後、天正11年(1583年)4月には、信孝と連携する越前の柴田勝家を「賎ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で破り、柴田家居城、北之庄城(きたのしょうじょう)で、柴田一族を滅ぼしました。翌月には織田信孝も自害(じがい)に追い込まれます。「本能寺の変」から1年余りで、羽柴秀吉は名実ともに織田信長の後継者となり、諸将を動員して大坂城の築城を始めました。天正12年(1584年)4月、秀吉の台頭に危機感を感じた信長の次男・信雄(のぶかつ)と、徳川家康(とくがわいえやす)が結んで、秀吉軍と衝突する「小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦い」が起こります。「長久手の戦い」で家康に敗れた秀吉は、信雄・家康との和議を結びました。

この後、秀吉は、紀州の雑賀(さいが)党攻めや、四国の長宗我部(ちょうそかべ)攻めを進めつつ、関白に就任します。天正14年(1586年)には、豊臣の姓を賜り、太政大臣(だじょうだいじん)に任官されます。天正15年(1587年)九州平定。天正18年(1590年)の「小田原攻め」で関東の北条(ほうじょう)氏を下し、その際、伊達政宗(だてまさむね)ら奥州の武将も豊臣秀吉に下ります。九州から奥州まで、豊臣秀吉に従うこととなり、ここに天下統一が実現しました。


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