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作者とその時代

寛政(かんせい)時代の世相

徳川幕府への信頼のゆらぎ
『天明飢饉之図』

『天明飢饉之図』
天明の大飢饉における会津藩の惨状を
描いている
(福島県会津美里町教育委員会所蔵)

天明2~7年(1782~1787年)の大飢饉(だいききん)では、餓死と疫病の流行のため、全国で数十万人の死者が出たといわれています。江戸・大坂などの都市部でも米価が高騰し、米を囲い込んだ米商人を対象とした打ちこわしが続出します。後の寛政時代(1789~1801年)に入ると、橘南谿(たちばななんけい)の『東西遊記(とうざいゆうき)』など、天明の大飢饉における東北地方の惨状を記した書物で、飢饉の実態が一般に向けて発信されました。この天明の大飢饉が、当時の老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の失脚を招きました。また、飢饉時の対応の不備が、幕府や藩の権威低下につながったといわれています。寛政期の大坂では、太閤記物の作品が歌舞伎や浄瑠璃、講釈などで盛んに演じられました。寛政期における太閤記物流行は、元々「太閤贔屓の徳川嫌い」で知られる大坂人が抱いている徳川幕府に対する不満の表出とも考えることができるでしょう。

大坂人の「太閤さん贔屓(びいき)」
『大阪旧城之図』 円山応挙 画 林基春模 写

『大阪旧城之図』
円山応挙 画 林基春模 写
(大阪府立中之島図書館所蔵)

天正11年(1583年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、大坂城の築城に着手します。完成した大坂城は、屋根は5重、内部は地上6階、地下2階で、当時、類のない豪壮な城でした。この大坂城築城の際に、豊臣秀吉は、堺の商人らを大坂の土地に移住させて、政治と経済の中心地を築きました。「大坂夏の陣」(慶長20年[元和元年・1615年])で、大坂城とその城下町は跡形もなく焼け、戦の後、徳川幕府の元で復興します。しかし、大坂の人々は、三国無双(さんごくむそう)と呼ばれた大坂城を築城し、最初に大坂の地に繁栄を招いた豊臣秀吉に親近感を持ち、近現代を通じて徳川幕府より豊臣氏に心を寄せる「太閤さん贔屓」として知られています。その「太閤さん」が活躍する『絵本太功記』も大坂での人気が高く、近世期、大坂における総上演回数は、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』と『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』についで第3位です。大坂人の「太閤さん贔屓」が、『絵本太功記』の人気の背景にあるといえるでしょう。


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