新版歌祭文をひもとく

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芝居になったお染久松

『歌祭文縁合彈(うたざいもんえにしのつれびき)』に
描かれたお染と歌祭文の表紙 早稲田大学附属図書館所蔵

『歌祭文縁合彈(うたざいもんえにしのつれびき)』に
描かれたお染と歌祭文の表紙
早稲田大学附属図書館所蔵

お染久松の墓

お染久松の墓
大阪府羽曳野市 野中寺

宝永7年(1710年)正月6日に、大坂板屋橋(いたやばし)の南詰(みなみづめ)にあった油問屋の細工場(さいくば)で、丁稚(でっち)の久松が主人の娘そめと刃で心中しました。まだ将来のある若い者同士の心中でした。早速、事件をそのまま歌舞伎世話物に仕組んだ『心中鬼門角(しんじゅうきもんかど)』が大坂荻野八重桐(おぎのやえぎり)座で上演されました。浄瑠璃では宝永7年4月以前、紀海音(きのかいおん)作『お染久松袂(たもと)の白しぼり』が、大坂豊竹座で初演されました。こうして「お染久松」の名が高まると、その実説が様々に詮索されるようになりました。13歳の久松が2歳のお染の子守りをしていて東横堀(ひがしよこぼり)に落とし、その申し訳に自ら死を選んだ、とか、お染に井戸を覗かせていて落とし、激怒した主人に蔵に閉じ込められた久松が、首を吊って果てたとか…さらに穿(うが)って、心中沙汰を世間に知られるのを嫌った油屋が、様々な嘘説を流したとか。長い間、真相は明らかではありませんでしたが、この事件は『元禄武士の日記(げんろくぶしのにっき)』、『御畳奉行の日記(おたたみぶぎょうのにっき)』として世に知られるようになった、尾張藩士、朝日重章(あさひしげあき)の『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』に、
「八郎右衛門語云。当春大坂に而心中。正月六日。板や橋南つめ油屋の僕(でっち)久松[「角前髪」と注有り]、主人の娘そめと主の油細工所にて心中刃死」
とあり、この記事が、同時代記録として最も信憑性が高いものと考えられています。

 

板屋橋は長堀川(ながほりがわ)に架かる橋で、その南詰は当時の鰻谷(うなぎだに)。これには異説もあります。牧村史陽(まきむらしよう)氏によると、東横堀川に架かる瓦屋橋の西詰西南角が、油屋のあった問屋町(とんやまち)と呼ばれた場所で、屋号は天王寺屋という説。さらに、後藤捷一(ごとうしょういち)氏によると久松の出自は、摂津国豊島郡走井村(せっつのくにてしまこおりはしりいむら)にあった浄行寺(じょうぎょうじ)の次男で、寺を継ぐ長子以外は、大坂へ奉公に出され、この久松が油屋のお染と恋仲になった、という説があります。正月の挨拶のために実家に戻り、引き止める両親に「主人によんどころなき要用あり…」と戻り、その夜二人は心中して果てた、と寺の過去帳にあるということです。また、河内国丹南郡野々上村(かわちこくたんなんこおりののうえむら)の野中寺(やちゅうじ)には、お染久松の十三回忌にあたる、享保7年(1722年)建立の供養墓があります。施主は天王寺屋権右衛門。さまざまなことが研究探索の結果、明らかにされてきました。

しかし、実説の探求は、時として芝居の「虚」の部分を味気なくすることもあります。例えば、久松は、丁稚から手代となり、名も七兵衛と改名した[七兵衛では芝居になりにくいのではないでしょうか]とか、心中当時は、男20歳、女17歳。20歳であれば元服して手代となっていたと考えられ、前髪(まえがみ)も考え難いものです[あれやこれや:年季奉公と昇進参照]。やはり虚実皮膜(きょじつひにく)の作劇が求められます。



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